長門紀幸の日記…
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久慈修 PHOTO by Norimichi Kameta



俺は夕張で生まれた
三人兄弟の末っ子だ
明るいね~ちゃん
さだまさしの好きなに~ちゃん
そして俺だ
俺はいつだって自由だ
そして俺の周りにいるやつも皆自由な気持ちにさせてやる
そのかわり俺を良く見ろ
自由ってのは勝手気ままなことをやるだけじゃない
自由に計画を立てる
自由に何が大切かを見極める
自由ってのは脇目もふらず何かにこだわってもいいってことだ
こだわれ!
みんな自由にこだわれ!
みんな自由に自分を表現しろ

俺はいつもそんな姿勢で呼吸をしている
自由ってのはなまらきもちがいいぞ

 

隣で黙々と作業を続けるカミサンを横目に、僕はある人のHPを発見し、暫く目が離せなくなった。そのある人とは、僕の人生の中で最も影響を与えてくれたと思う人で、久慈修さんという人。久慈さんは長きに渡りSIAデモンストレーターを務め37歳になるだろう今年はなんと1位、しかも奥様である久慈直子さんと夫婦でアベック優勝。そんな久慈さんとの出会いは10年、いや22歳くらいだったから13年?ほど前になるのだが、そのころの僕はスキーが上手くなりたいという思いが頭の中の全てを占めていて、当時デモンストレーターが6人も所属しているという脅威的なスキースクールである北海道夕張のマウントレースイスキースクールに飛び込んだ。その6人の内の一人が久慈さんであり、もう一人が現在は奥様である直子さん。

当時、クソガキで生意気な僕はひとつ年上の久慈さんに徹底的に可愛がられた。最初の年なんか、はっきり言って嫌われていただろう。僕も久慈さんのことは嫌いだった。若く、勢いがあって言いたい事をズバズバ言う攻撃的な久慈さんのことをどうしても好きになれなかった。しかし、いつのまにか兄弟のように仲良くなった。たぶん、性格が似ているんだろう。滑りも、体型が最も近い久慈さんの滑りを真似しやすかったし、何より久慈さんは天才的に上手かった。知らないうちに滑りが似てきて、「久慈が滑っているのかと思ったぞ」とよく言われたけど、本質的には絶対超えられないほど久慈さんは上手かった。最年少で、なんも考えずにデモになれた久慈さん。それから今でもトップデモとして君臨する久慈さん。対して僕はそれから5年間、デモ選にチャレンジしたけど結局デモにはなれなかった。そして無名のまま選手はやめた。

夕張に所属した5年間の中での一番の思い出が、Jrレーシングのコーチをした事。当時のスクールには小学生がいくらかお金を払えばシーズン中毎日スキースクールの先生が教えてくれるJrフェデレーションという子供スキークラブみたいなのがあって、小学生が100人くらい登録し、毎日30人~50人くらいをスタッフで教えていた。入ったばかりの僕は子供が苦手で、正直担当するのが嫌だった。そのときのヘッドコーチが久慈さんで、嫌々レッスンしてる僕を見ると子供たちが見ていようとお構いなしに怒られたっけ。だから久慈さんに怒られないように、一生懸命教えているフリしながら子供に接していた。そうこうしているうちに3年ほどすると、1年生だった子供も3年生になるワケで、そういう子供たちが知らないうちにビックリするような滑りをしてくるようになる。僕にしてみれば教えたわけじゃなく、彼らが自然に見様見真似で覚えたことなのだろうが、なんだかムショウにうれしくて、興奮した。こいつら将来、ワールドカップ選手になるんじゃないかってね!1シーズン毎日で100日、しかも一流のスキーヤーが教えてるんだからって。

でも、現実はそう甘くなくて、北海道は猛者揃い。当時、夕張からは全国どころか地区予選さえ通るレーサーは育っていなかった。毎日滑っても、試合となると違うし、お金もかかる事だからそこまで干渉できない。でも、素質のある子供たちが全国のひのき舞台に立たせることは夢ではないと思っていた。

ある年、シーズンが始まる直前に久慈さんから電話があった。その電話の内容は驚くことに、「俺、何年かスキー辞める」という内容だった。だから、子供たちのことはお前に頼むよ、と。そのときの台詞はいまでも覚えている。そして僕の中でなにかがはじけて、心が奮い立ってきたことを。文章にすると笑えるんだけど、久慈さんなんでも、タイのサムイ島のさらに奥にある島で、月を見てたんだって。そしたら人生を悟ったらしい。夢を現実にする方法を。なぜ、自分があんなに若くしてデモになれたのかも、そこで悟った。それは、勝負事の中での心理状態だ。久慈さんの場合、ワールドカップ選手を見ても、「たいした事ねーな。練習すれば勝てるべ」と本当に思う性格。だから、スタートするときのイメージは優勝している自分なのだ。比べて僕なんかは、「勝てるわけねー」と諦めてしまうから、スタートする前から「負けるに決まってる」と思ってスタートしていた。ただ、そんな僕でも優勝するレースもあって、そんなときは「俺より上手い奴いないもんな。このレースは」と思いスタートしていた。だから、勝てるレースは緊張しないのだ。それを久慈さんは自覚した。そして、久慈さんじゃない人間がどうすれば勝てるのか。それは、スタートの時に「勝てる」と思う状況を自ら作り出すことだ。それに気が付いたから僕に電話をくれた。そして、「お前はこのシーズン、デモ選で「勝てる」と思えるように練習はもちろん、「生活」するんだ。」と言ってくれた。「生活」という意味は、24時間を意味する。人間社会の中での生活は常に「妥協」がつきまとう。「妥協」しないと生活できない。友達、仕事の仲間、家族…すべてのなかで大小の妥協をしなければ、摩擦ばかり起こってしまう。しかし、その妥協に慣れてしまうと、スポーツ選手としては大成しない。練習はもちろん、試合の中で妥協なんかしてたら、負けてしまう。トップ選手をみればわかる。妥協なんか少しもしない、化け物みたいな奴らだ。少なくともその競技においては、妥協するという人間社会特有の感情はどっかに忘れてきているだろう。

そして僕は考えた。「なんて妥協しまくりの人生なんだ…」と。自分で「無理だ」と思っていることに表面では「デモ目指して頑張ります」なんて言いながら・・・心の声は「無理でしょ」と言っていた。そして「なんとかしなきゃ」と考えた。必然的に答えは出た。スキーに関係することに、日々一生懸命取り組むことはもちろん、生活の中でも一切の妥協を捨てることにした。そして今までのことを振り返った。そして悔やんだ。「なんて適当だったんだろう」と。一番最初にジュニアレーシングの子供たちの顔が浮かんだ。そしていままでレッスンした生徒さんの顔も。2時間のレッスンの中で「楽しませ」「ちょっと上手にすればいい」と思っていた。プロとして、お金をもらっている分のサービスはここまでだ、と勝手に自分で決めていた。

子供たちには申し訳なくて、涙が出てきた。なんて愛に欠けた人間なんだろう、と。猛省し、今日から変わろう、一つ一つの意味を考え、目標を決め、それを達成する手段を考えよう。あいまいなもの、目標がないものは切り捨てよう。子供たちのことには前から疑問を抱いていた。何のためにやっているんだろう?お金もうけ?それともスポーツによる健全な育成?誰もその意味さえも考えていなかった。校長を始め僕たち全員。だから子供たちは中途半端にスキーを教えられ、悪いことをしても怒られず、少なくても僕の目から見て中学生くらいになると卑屈な部分が見て取れた。井の中の蛙。でも、自分より強いものとは戦えない、田舎の子供。お金もうけのためだけなら、それでいい。子供たちを楽しませ、叱らず、怪我させず、上手にする。ただ、健全な育成なら話は別だ。スポーツをすることによって覚える挨拶、人の話の聞き方、上下関係・・・古臭いかもしれないが、絶対必要だと思う。叱れない大人が子供を育てた結果の実例はいくつも見てきた。

山に入ってすぐ、久慈さんの代わりにジュニアのヘッドコーチをやれと言われた僕はすぐ、校長に相談した。ジュニアをやる目的はなんですか?ビジネスですか?育成ですか?と。校長は答えた。「育成だ」と。そして僕は校長に約束してもらった。少し厳しく見えるかもしれませんが信じて見守って下さいと。

97年?のシーズンが始まった。僕は久慈さんがカナダから連れてきてくれたスティーブと一緒に、毎日子供たちにスキーを教えた。幸いカナダのナショナルチームのコーチを経験したスティーブが、とてもシンプルなメソッドを持っていたのでスキーを教える事での迷いはなかった。僕はただひたすら子供たち一人一人のことを真剣に見て、細かすぎるくらい細かく基礎の基礎から教えていった。挨拶の声が小さいと何度もやり直しさせた。練習に入る前の準備体操すら、ダラダラしてたり声が小さいと親が見ていてもお構いなしで怒鳴り、やり直させた。子供たちは正直だった。大人が真剣だと目を見ただけで察知する。「やべ、長門先生はマジだ。」と。次第に子供たちが真剣に練習するようになった。他のコーチにも考えを伝え納得してもらい、同様に接してもらった。怒れということではない。真剣に愛すること。常に相手のことにベストを尽くそうということなんだれど。

子供たちはどんどんスキーが上手くなっていった。元々黙っていても上手くなる子供たちが真剣に練習すれば当たり前だけど。それよりも自分が教えられる唯一のスキーを通して、いろんな事を伝えられることがうれしかった。子供って素直だ。大人の鑑なんだ。大人がいいかげんだと子供もいいかげんになるし、真剣になれば子供も真剣になってくれる。そうして子供と接しているうちに、パワーを与えるつもりが逆にパワーをもらっていた。あまり一生懸命になりすぎて、自分が練習する暇はなかった。けど、タイムレースではどんどん速くなった。子供たちがどうすれば速く滑れるかをいつも考えていると、自分はそんなに滑らなくても上手くなることを実感した。

そうして自分にとってのデモ選の日がやってきた。1シーズン、180度変わったと言ってもいい過ごし方をしてきた。自信はあった。ただ、その中で僕の心の声、つまり本当はどうなりたいのかは以前とは違う答えだった。僕の心の声はもうデモンストレーターはどうでもよくなっていた。人生の中で、デモ選以外にも勝負の場面はいくらでもある。その一つ一つを一生懸命立ち向かい、達成する快感や満足感を得ることが人生には大切なことなんだということをシーズン途中で既に悟っていた。久慈さんがシーズン前に電話してきたとき、なんでスキーをしばらく辞めると言ったのか。それは、自分の本当の心の声に気づいたからだと言っていた。常に自由でいたい。そう言っていた。自由でいたいから、いまスキーを続けているだけじゃ駄目なんだ、自由でいるために、いましばらく他にすることがあるんだ…ってね。

その年のデモ選の会場はマウントレースイ。つまりホームってこと。雪、斜面の起伏の一つ一つ、誰よりも知っている。スタートのとき勝てると思ってスタートできるような環境は全て揃っていた。一種目ごとに、緊張しない分集中を高めてスタートできた。結果、高速種目ではこれまで出したことのないような点数が出た。低速種目はどうでもよくなっていた。やる意味が分からなかった。そこで勝ちたいとは思わなくなっていた。ひどい点数だったけど悔しくもなかった。

最終日、GSのスタートの時、子供たちが応援に駆けつけてくれた。子供たちのレースではいつも僕がスタートで「行け!」と大声で叫んでいたので、僕のスタートの時は怒号のように子供たちの声援が聞こえた。後にも先にも一番集中して攻めたレースができた。残念ながらラップは取れなかったけど、いいタイムだった。学校対抗では優勝、個人では2位になることもできた。もう満足すぎるくらい満足だった。俺はもうスキーを辞めてもいい。人生で勝負するとき、どう考え、どう行動すればいいのかを久慈さんと子供たちに教わった。どんな困難な状況にも立ち向かえるだろうと。

そして僕は7年間のスキー漬けの生活にピリオドを打ち、あれから10年近く経ったいま、小さい会社だけど社長になることが出来た。その間、あれほど一生懸命になったことはないけれど、ピンチや選択肢に悩む瞬間は何度もあった。だけど、それほど動じず行動できるようになったと思っている。

子供たちがその後どうなったのか…ずっと気になっていた。でも、久慈さんがスキーを続けていることくらいは聞こえてきていたので、きっとあいつらも立派に育っているんだろうと勝手に想像していた。

こないだスキージャーナルを本屋で立ち読みしたら8ページくらいの記事で久慈さんがジュニアレーシングを自ら主宰し、トータルスキーオーガナイズという名前のジュニアレーシングチームを運営していることがわかった。読んでびっくりしたよ!ともや圭太が立派になって、久慈さんを手伝い、小学生を教えてる。早速家に帰って調べてみたら、あるじゃん!久慈さんのHPが!くまなく見た。そしたら、ユウキ、広大、岳、みんなみんな…スキー続けて、立派になってて…いやー涙出たよ!こんなうれしい事はないね!そして、あれから、あの時のまま子供たちを育て続けて、そしてこれからもそれを続けていく久慈さんには深く感服します。本当に心のでっかい人だと思います。10年近く音沙汰なくしてたから、俺のことなんかもう皆忘れていると思いますが、俺は心の底から応援するよ!これからも、俺の心の師匠です!元気もらいました。

そのうち連絡して、今年の冬はレースイに行きたい!元気をもらいに。

いま一度久慈さん、子供たちに感謝!ありがとう!

 

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